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天竜川 橋紀行[4]


随分とご無沙汰してしまいました。天竜川橋紀行 第4号です。今回は2026年4月8日に訪ねた上伊那郡中川村の4橋をご紹介します。名橋坂戸橋や峡谷がつくる景観をお楽しみください。橋名の頭の数字は前回からの通し番号です。
ナビゲーター:松島 高根さん   
※参考文献「歴史の道調査報告書 天竜川」(長野県教育委員会編)

中川村上空より。2008年撮影。峡谷を縫って蛇行する天竜川。写真右上に前回取り上げた飯沼橋(通し番号51)、その下流に坂戸橋、写真の中ほどに牧ヶ原橋。牧ヶ原橋の左上に天竜川の氾濫原が広がる


「歴史の道調査報告書 天竜川」に、中川村の川筋の様子が記されています。     
『……やがて小平の台地と北島の段丘崖にはさまれた坂戸峡の狭窄部を通り、迂回して小和田(中川村片桐)の大きな氾濫原をつくっている。さらに東方へ大きく突出した片桐牧ヶ原台地と南向(みなかた)中林段丘崖に挟まれた狭く深い渓谷を鋭角的に大きくまわり、釜ヶ淵峡をつくり、田島平(中川村片桐)へとつづいている。    
田島では前沢川が天竜川に注ぎ、さらに渡場(中川村)では南アルプスより流入する小渋川の水を集めしだいに水量を増しながら下伊那方面へ向かって流れていく。    
総じてこの地域の天竜川は小和田・田島(いずれも中川村)地区の広い氾濫原を除いては、深くけずられた東西の段丘崖の間を、細くまた大きく迂回しながら流れていくのが特色であり、中田切川・与田切川・前沢川など過去に洪水を引き起こした中央アルプスからの支流河川の多量の岩石、土砂流入などの影響が大きい。通船時代「たき」と呼ばれる急流の瀬のところどころに巨岩が多く、川の中に奇岩が頭を出していて船頭泣かせの箇所も多かったといわれる。また、東西交通としての渡(わたし)の多いところで、北の日曽利(ひっそり)から南の渡場(どば)まで七カ所の渡船場があった。』    
今回取り上げる4つの橋の間には、「坂戸」「山嵐(なぎ)」「葛島」「柏原」「渡場」の5カ所の渡(わたし)があったそうです。駒ヶ根市から中川村の間の過去の渡船と現在の橋を以下にまとめます。     
大久保の渡し:大久保橋(43)   
下平の渡し:天竜大橋(45)    
小鍛冶の渡し:小鍛冶橋(46)    
吉瀬の渡し:吉瀬橋(47)   
日曽利の渡し:日曽利橋(50)   
飯沼の渡し:飯沼橋(51)    
坂戸の渡し:坂戸橋(52)   
山嵐の渡し:牧ヶ原橋(53)    
葛島の渡し:天の中川橋(54)〈渡し場は橋の下流およそ100m付近〉   
柏原の渡し:架橋無し   
渡場の渡し:天龍橋(55)     
※( )内の数字は橋の通し番号

52 坂戸橋(さかどはし)

竣工:昭和7年(1932)11月 種類:アーチ橋〈鉄筋コンクリート(RC)開腹式上路アーチ橋〉 橋長:77.9m 支間長:70m 幅員:6m アーチの高さ:11.7m 国重要文化財(令和2年12月23日指定)    
・1926年制定の「道路構造に関する細則案」の3等橋として設計されました。設計・指導は長野県土木課技師、棚谷興一氏。    
・現在の重量制限は2t。ただし、付近では制限標識が見つかりませんでした。修復工事が完了したので現在は規制が無いのかも。

その姿の美しさから、かつて「東洋一のアーチ橋」と呼ばれた名橋・坂戸橋
三本の開腹固定アーチ
親柱に設置された街路灯。地元地区有志の寄付により創建当時のデザインで復元されたという
欄干はそれほど高くない。デザインはシンプルだが美しい
狭窄部には強固な片麻岩の岩盤がみられる
下流から望む
橋下流の河原には大きな花崗岩が。狭窄部を抜け川幅が広がると流速は落ちる。このため水勢による運搬力が低下し、大きな石は流れず留まり特有の様相をつくる
やや下流に、明治末年竣工の旧橋(吊橋)主塔部が両岸に残っている
橋の東岸ではゲストハウスの開設準備が進んでいました
建設当時の様子を伝えるパネルが、国道脇の駐車帯に設置されている

53 牧ヶ原橋(まきがはらはし)

竣工:昭和53年(1978)10月 種類:アーチ橋 橋長:137m 幅員:9.5m 片側歩道:2.5m

牧ヶ原台地上空より。2008年撮影

雪山の南アルプスを背に、牧ヶ原橋を望む
牧ヶ原橋が架かる狭窄部は「釜ヶ淵峡」とよばれる
牧ヶ原橋の桁下高(橋桁の下面から川の水面までの垂直高)は47m。南原橋(飯田市駄科)が40mなので、長野県内の天竜川にかかる橋の中では最も高いのでは
牧ヶ原橋直下の淵(写真下方)は「お鶴淵」と呼ばれる
橋上から望む「お鶴淵」
下流より
橋上から川を望む。田島氾濫原は嵩上げのため、リニア工事の残土を載せたトラックが行き交う
橋上の様子

54 天の中川橋(あまのなかがわはし)

竣工:平成21年(2009)11月 種類:桁橋 橋長:113.4m      
昭和35年3月竣工の旧橋に代わって架橋された。設計は(株)嶺水、製作は綿半インテック(株)と、共に地元飯田市の業者名が銘板に印されている。

下流から
橋下流の流れは、のたりのたり
東岸から
橋のすぐ上流で前沢川が合流。前沢川は普段は水量は少ないが、集中豪雨などで一度荒れると花崗岩や礫、土砂を大量に押出し、大災害を繰り返してきた

前沢川が浸食した深い谷

現在の堤防横に移築復元された「理兵衛堤防」。理兵衛堤防は度重なる天竜川の氾濫から田島地域の田畑を守ろうと、江戸時代中期寛延3年(1750)から文化5年(1808)にかけて、田島村の名主・松村理兵衛忠欣(ただよし)・常邑(つねむら)・忠良(ただよし)三代にわたって築かれた川除
幅4~5mほどの巨大な花崗岩が使われている
前沢川との合流には、かつての川除跡が多く見られる

理兵衛堤防を紹介する立て看板
石に刻まれた九頭龍大権現。復元された理兵衛堤防の近くに数基の石碑が安置されている。そのひとつに「天流功業義公明神」の碑がある。文化12年(1815)に松村理兵衛忠欣を「義公霊神」として祀ったもの

中川村上空より南西方面を望む(2008年撮影)。中ほどの牧ヶ原台地を境に、天竜川右岸に小和田氾濫原と田島氾濫原、二つの広範な水田地帯が広がっている。氾濫原は礫が流入し耕土は砂壌土になる。この砂壌土は水もちが悪く肥料も保持できず窒素が吸収できないことから、お米のたんぱく含量は相対的に低くなる。このたんぱく含量は味を左右する要素で、これが少ない米が食味に優れ、窒素分が多いと味が落ちるとされる。「田島の米はおいしい」といわれるのはこのためか

支流で目にした欄干兼ガードレール

天竜川の名前の由来         
川の名前の多くは、その地名からつけられます。しかし「天竜川」の名前は地名からではありません。古い書物によると、天竜川は奈良時代の頃には「麁玉川」と呼ばれ、平安時代には「広瀬川」と呼ばれるようになりました。鎌倉時代には「天の中川」と呼ばれ、その後「天竜川」と呼ばれる ようになりました。    
「天竜」はもともと「天流(アメノナガレ)」と読んでいたようです。これは天から降った雨が、峰から諏訪湖へ流れ出て、天竜川の流れとなることから、そうよばれていたのでしょう。    
「竜」の字が使われたのは、水の流れが速く、竜が天に昇っていくかのように見えるというところからとか、天竜川の流れ出る諏訪湖の近くにある諏訪神社に祭られている竜神からきているという説もあります。    
(天竜川上流河川事務所ホームページより)

55 天龍橋(てんりゅうはし)

竣工:昭和63年(1988)9月 種類:桁橋 橋長:211.5m    
ここの地名は「渡場」。かつて渡しがあった名残です。橋のすぐ下流に小渋川との合流点があります。昔は小渋川を流して運んだ木材を集積する「土場」でもありました。今は砂利・礫の集積場になっています。

すぐ下流に小渋川、少し下って片桐松川が天竜川に合流する。地形からみて「片桐松川の(水流による)押出しの方が強い」と、ナビゲートしてくれる松島高根さんはいう
東岸は中川村、西岸は果樹のまち松川町。親柱にりんごのオブジェ
よく見ると河川内の一部が畑に利用されている。     
堤防両岸の間を専門用語で「堤外地」といい、その外側を「堤内地」というらしい(外と内が逆の思えるが「堤防が人家のある土地を洪水から守ってくれる」という考え方から、このようにいうようだ)。この写真のような「堤外地」(個人の所有地は「堤外民有地」という)の農地は、河川法に基づく「河川区域」内の民有地や国有地で、洪水のリスクが高い場所にある農地。堤防の川側(川表)に位置し、畑などに利用されるが、浸水や流出のリスクがあるため、建築物は原則制限され、農業利用も制限付きの許可制となる。(以上AIの回答から)
信号も「渡場」


※橋の構造や種類については、株式会社長野技研さんのHPが詳しいので参照してください。https://www.naganogiken.co.jp/business/bridge/bridge-knowledge1/

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