艶三郎の井・分水枡
御子柴艶三郎は嘉永5年(1852)に西伊那部村荒井に生まれ、17歳で上田の造り酒屋に奉公しましたが3年で帰郷。養蚕や採石の事業化を試みましたが、成功をみるには至りませんでした。
そのころ、小沢川の水利権をめぐって小沢川の北岸と南岸の争いが絶えず、用水の必要性を痛感した艶三郎は、辺り一帯に地下水脈を探し求め、井戸の掘削に奔走しました。
明治28年(1895)、ついに水脈を発見し、翌年から竪井戸5箇所を掘る本格的な工事に着手。それらをつなぐ横井戸は約600メートルに達し、工事が進むにつれて水量は豊富になりました。明治31年(1898)に工事は完了しましたが、それはさまざまな苦難のすえ私財を使い果たし、大きな負債を抱えての完成でした。
明治33年(1900)12月、「俺の命は約束どおり神様に差し上げる。俺は水神になるのだ」と言い残して艶三郎は自刃しました。彼が一命を投げうって掘削したこの井戸により、約410ヘクタールが開田され、この台地の水不足は解消されたのでした。
「上伊那たずねある記」(JA上伊那)より
艶三郎の井は「西天竜用水路」に散見される円筒分水工と構造は同じです。土木学会の選奨土木遺産に認定されている西天竜用水路の円筒分水工は、昭和3年(1928)に完成し、開田工事は昭和12年(1937)に完了しました。艶三郎の井はこれに先立つ明治31年(1898)に工事を完了しています。一方、竜西一貫水路の円筒分水工には、高森町下市田の第10号分水工などがあります。
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