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高森町の寺院(『南信州の寺院』から)

2012年(平成24)に飯伊仏教会から刊行された『南信州の寺院』には、飯田下伊那全体で129の寺院が紹介されています。このうち、高森町は9つの寺院が載っています。
この高森町内の寺院を、『南信州の寺院』を参考に紹介します。寺院めぐりの参考にしてください。
(当記事は『南信州の寺院』から転載しました。内容は書籍が発刊された2012年(平成24)当時のものです。現在と異なる内容が含まれている場合もあります)

1 安養寺(あんようじ)
2 光専寺(こうせんじ)
3 光明寺(こうみょうじ)
4 松源寺(しょうげんじ)
5 宝泉寺(ほうせんじ)
6 明照寺(めいしょうじ)
7 領法寺(りょうぼうじ)
8 隣政寺(りんしょうじ)
9 瑠璃寺(るりじ)

1 松岡山 安養寺(しょうこうざん あんようじ)

宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 阿彌陀如来
開創 延元三・暦応元年(一三三八)
開山 古鏡明千禅師
開基 松岡伊予守貞景

安養寺本堂
安養寺本堂

松岡氏の菩提寺
安養寺は領主であった松岡氏の菩提寺として、南北朝時代初年に創建された。山号「松岡山」はこれに由来する。開基・松岡伊予守貞景は禅による求法の心が深く、古鏡明千禅師を招請して開山と仰いだ。安養寺記に「松岡貞景は古鏡明千禅師の室に入り、衣盉を頂戴し、戒法を受持して道山居士と号す」とある。
古鏡明千禅師は幼少より大鑑禅師(清拙正澄)に参じ、後に元(今の中国)に入り求道修練を積んで禅の深奥を究めた。帰国後の正平十一年(一三五六)には禅宗の禅道修行を定めた「百丈清規」を印刻して流布している。足利尊氏の請を受けて京都の真如寺に住し、飯田市川路の開善寺、さらに五山のひとつである京都の万寿寺に住した。
安養寺は最初臨済宗建仁寺派であったが、天正十年(一五八二)の織田と武田の戦火で焼失後、中興開山の別伝智単禅師により妙心寺派となり今日に至っている。

茶毘紙刊本の梵網経
至徳三年(一三八六)十月二十一日、時の松岡城主・兵部少輔貞政は、安養寺において亡父貞景(道山心公居士)の三十三回忌法要を厳修した。このとき追善に華厳経をはじめ五部の大経二百巻を奉納しているが、その茶毘紙刊本による梵網経上下二巻が現存している。貞政公の奥書がある。また、松岡氏の供養塔と伝えられる宝篋印塔が境内にあり、吉野時代の作で貞政の造立とされる。実父貞政の墓塔であるともいわれている。
鎮守は三宝荒神が祀られていた荒神堂である。現在春に行われる萩山神社の祭典は、大正期の神仏分離令により同神社に移ったが、元はこの鎮守堂の祭典であった。境内は紅葉やドウダンなどの木々が季節の色を落とし美しい。

安養寺境内
安養寺境内

縁日・祭事◆鎮守三宝大荒神の祭典:4月4日
史跡・文化財◆茶毘紙刊本による梵網経上下二巻
寺宝◆本尊・阿彌陀如来坐像 梵網経上下二巻 澤庵禅師墨跡 白隠禅師墨跡 ほか
〒399-3103 長野県下伊那郡高森町下市田1092  TEL 0265-35-2720

2 吉城山 光専寺(きちじょうざん こうせんじ)

宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
開創 永禄年間(一五五八~七〇)
開山 芳蓮社西誉上人
開基 吉村元貞

光専寺山門
光専寺山門

動乱の世に救済を願い創建
光専寺は永禄年間(一五五八~七〇)に、現在の寺地にほど近い吉田神社に隣接して創建された。松岡氏の家臣で、出城の城山城主・吉村元貞は、西誉上人を開山に、戦国の世に救世平安を立願した。
天正十年(一五八二)、織田軍の侵入により堂宇を焼失する。その後、吉村本亭が寺領を寄進し、淳哲上人を請して中興した。延宝七年(一六七九)に現在の城山の地に移転したといわれているが、創建当初より浄土宗寺院として法統を継承している。
本堂は大正十三年(一九二四)に総本山知恩院の御影堂を模して再建。平成に入り瓦を葺き替え、吉城の高台にその威容を新たにしている。石段上の山門は享和元年(一八〇一)に建立されて以来、鐘楼門として重厚かつ簡明な美観を保ってきた。梵鐘は第二次世界大戦に供出されるも、戦後再鋳造され時を刻み続けている。法然上人八百年大遠忌を期して修復され、七堂伽藍に瀟洒な佇まいを見せている。

本尊は平安期の作
境内正面の本堂には、阿弥陀如来立像を本尊に、観音・勢至両菩薩を脇侍とする三尊像が祀られている。これらは平安時代の仏師定朝の作と伝えられている。本堂左手には観音堂・閻魔堂を合築した集会堂があり、境内仏としての観音菩薩三体、閻魔王と十王の石像を祀るとともに檀信徒の集う縁を深めている。
観音堂の鰐口には「元禄元年」、手水石に「元禄五年」とそれぞれ刻字されていることから、古よりの歴史が感じられる。境内各所に水子地蔵尊や三十三観音石像、六地蔵などが安置され、地元の寺院として信仰の要所となってきたことを伺い知ることができる。

光専寺本堂
光専寺本堂

縁日・祭事◆修正会:元日 御忌会・春彼岸会:春分の日 施餓鬼会:8月7日
寺宝◆名号碑(天遊和尚・徳本上人)ほか
霊場・札所◆伊那西国観音札所第二十八番札所
〒399-3102 長野県下伊那郡高森町吉田706 TEL 0265-35-2822

3 如説山 光明寺(にょせつざん こうみょうじ)

宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来
開創 寛文十三年(一六七三)
開山 日理(日蓮宗) 慶演(天台宗)

光明寺1
光明寺境内

白衣観音が見守る寺
光明寺は天台宗の寺院だが、その始まりは日蓮宗であった。寛文十一年(一六七一)、時の領主・三代座光寺為実(ためざね)が隠居後、現在の地近くに庵室を建て、そこに白衣観音を安置した。二年後、隣村にあった日蓮宗立法寺を同地に移して改築し、同寺の住僧・日理を請じたのが起源である。
庵室は数年後に観音堂として改築され、桂材を用いたことから「桂堂」と呼ばれる。堂内には三十番神の木製額が掲げられている。この三十番神は法華経の守護神として、月の朔日(ついたち)から晦日(みそか)までの日々に配当された神々であり、伝教大師最澄が比叡山に祀ったのが最初とされる。神名額の揮毫は江戸谷中・感応寺(現・天王寺)の住職によるもので、一番から十五番神が十二世日純、十六番から三十番神が十四世日饒となっている。この本山感応寺が元禄十一年(一六九八)に天台宗に改め、これに準じ翌年三月、立法寺も天台宗に、寺名も光明寺と改称した

玖老松と仏たち
光明寺大仏殿(本殿)には、明治期の落雷火災による焼失まで、丈六の阿弥陀仏が安置されていた。これを彫像した空幻(くうげん)は寺宝の虎頭・狐面も彫っており、本堂南側にはその名号碑がある。この奥に天満大自在天神が祀られ、受験生らの信仰を集めている。本堂正面には、日を切って願掛け参りをすると願いが叶うとされる日切(ひぎり)地蔵尊が安置されている。
観音堂(桂堂)に上る参道は高森町最古の庚申塔をはじめ、古い石仏が並ぶ。白衣観音を祀る観音堂は、病気平癒、子授け安産に霊験あらたかとして現在も訪れる人が多い。境内でまず目を引く樹齢六百年の玖老松(くろまつ 黒松)は、美しさと歴史が育んだ風格を感じさせる。

光明寺2
白衣観音を祀る観音堂

縁日・祭事◆縁日:元三大師(3日) 日切地蔵尊(24日) 天満大自在天神(25日)
祭事:護摩供(15日)
史跡・文化財◆観音堂(町有形文化財) 黒松(町天然記念物)
寺宝◆虎頭 狐面
体験 写経◆写経(毎月1回) 坐禅(随時)
霊場・札所◆伊那西国三十三番札所第三十一番札所
長野県下伊那郡高森町山吹8382 TEL 0265-35-2565

4 雲龍山 松源寺(うんりゅうざん しょうげんじ)

宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦牟尼佛
開創 永正十年(一五一三)
開山 文叔瑞郁禅師(圓照眞覚禅師)
開基 松岡右衛門大夫貞正

松源寺1
松源寺境内

松岡城址を守る寺
松源寺は写真の松岡城址見取図のように、中世の平山城「松岡城」の入口を占める場所に置かれている。開創は永正十年(一五一三)ころ、第十五代松岡城主・松岡右衛門大夫貞正によって、牛牧寺山地籍に創建されている。開山は貞正の実弟、文叔瑞郁禅師である。
その後、織田勢による甲州攻めにより焼失し、天正十六年(一五八八)、松岡氏改易のため松岡城が廃城になるに及んで、現在の地に移された。以後、城の現在の形を保存・管理してきたのは、寺の使命であった。
文叔瑞郁禅師は永正十二年(一五一五)、後柏原天皇の詔(みことのり)により、京都妙心寺の二十四世住持となり、郷里に帰ってからは松尾の龍門寺(りょうもんじ。松尾城内に小笠原信貴が創建した)の開山にもなっている名僧である。後に桃園天皇より謚(おくりな)され、圓照眞覚禅師の号をもつ。天文四年(一五三五)泰然として遷化(せんげ)。世寿六十九歳。その弟子黙宗瑞淵禅師は、遠州井伊の谷に龍潭寺(りょうたんじ)を開創し師を拝請開山としている。

井伊氏と松岡氏のつながり
文叔禅師は松源寺開山の前に、井伊氏の菩提寺である自浄院(後に龍潭寺になる)に住山していた経過がある。このころから井伊氏と松源寺(松岡氏)との繋がりが生じていた。
天文十四年(一五四五)、井伊の谷から一人の男子が松源寺に逃れてきた。井伊氏の御曹司・亀之丞(後の井伊直親。直政の父)である。当時、今川氏との内紛を抱えていた井伊氏では、跡取りとなる男子が無くなりそうになり、松源寺へ避難させる事態となっていた。弘治元年(一五五五)、状況が安定し亀之丞が帰郷することによって、井伊氏の血筋が断絶することなく、次の「徳川四天王井伊直政」へ繋がることができた。この因縁により、松岡氏改易に際しては直政の進言もあって、当主松岡貞利はその命を助けられ、井伊氏へのお預けとなっている。また、龍潭寺第九世・祖山法忍禅師は、文叔禅師の二百年遠諱に来山し、堂宇を整え、文叔禅師の木像、井伊直親の位牌を納めている。

松源寺2
松源寺本堂

史跡・文化財◆松岡城址(町指定) 市田柿古木(町指定) 松岡氏居館跡・お家塚
〒399-3103 長野県下伊那郡高森町下市田4389 TEL 0265-35-3302

5 真光山 宝泉寺(しんこうざん ほうせんじ)

宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
開創 元和二年(一六一六)
開山 深誉玄可和尚
開基 宮脇仁左衛門

宝泉寺1
宝泉寺の千体佛

輝達上人の発願 高森平和観音
その昔、地元の名主・宮脇氏がお伊勢参りに出かけた折、伊勢の宝泉寺から阿弥陀如来像を勧請した。高森出原の地に庵室を建てて同像を祀ったことが、宝泉寺の開創と伝えられている。
深誉玄可上人の開山以降は、代が変わり時代が移り行くごとに退転したが、十八世賢誉輝達上人の代で中興し現在の姿となっている。昭和五十六年(一九八一)、賢誉輝達上人は世界平和、人類長久、地域の人々の無病息災、家内安全、商売繁盛等々のために発願。当山南西の小高い地に高森平和観音を建立した。南アルプス連峰を眺望する絶景の地に安置され、安泰を願う人々の参詣を受けている。
なお、当寺境内には「南無阿弥陀佛」の名号碑が立っている。筆者は「深誉」と刻まれていることから、創建の元和二年(一六一六)当時のものと認知できる。

千佛堂の千体佛
本堂南の千佛堂には、高森町文化財に指定される「千体佛」が安置されている。本尊の阿弥陀如来を中心に、彩色された十五~十七センチほどの木製一刀彫りの神仏像が、十段にぎっしりと並列され、壮観である。
この千体佛は、寛永年間(一六二四~四三)に山吹領小横沢にあった秋岳寺において、木食僧の但唱(たんしょう)が作ったものである。但唱は作佛二万体を発願し、これを一千体ごとに分けて諸国の霊場に安置した。そのひとつが当寺の千体佛である。
千体佛は農事の守護神として、また病気平癒や安産祈願などに近郷の人々から広く信仰を得た。願掛けのため像を自宅へ持ち帰り、願いが叶うと再び寺へ返すという信仰形態もみられた。

宝泉寺2
山門と鐘

縁日・祭事◆高森平和観音祭:11月3日(平年)
史跡・文化財◆千体佛(町指定)
寺宝◆高森平和観音立像
〒399-3107 長野県下伊那郡高森町出原204 TEL 0265-35-2681

6 十方山 明照寺(じっぽうざん めいしょうじ)

宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
開創 大正十三年(一九二四)
開山 静譽貞順尼
開基 静譽貞順尼

明照寺1
出砂原の六地蔵尊

幼児の祈願所として
明照寺の創建は大正十三年(一九二四)、静譽貞順尼が本堂を建立し開山したことに始まる。貞順尼は諸処を托鉢した後、光専寺第二十三世・祐山上人に錫を預け、現在の出砂原地区に居を置いた。以来、信徒寺として檀家をもたず、行脚の間に行者より授けられた「虫封じ」の祈願により、広く世の子どもたちの「勘」を封じてきた。
大正十五年に群馬県太田市にある浄土宗大光院より、前立本尊として呑龍上人の尊像を迎えた。これ以降当寺は「呑龍さま」の名でよく知られるようになる。かつて春秋の大祭には善男善女が集い、虫封じや摩利支天像へのお参りで賑わった。幼児の祈願所とともに保育所を設立した貞順尼は、その後幼児教育の先鞭として尽力した。

出砂原の六地蔵
明照寺東側の一角に六地蔵尊の石像が安置されている。これは天保十二年(一八四一)七月に再建されたものである。
最初の六地蔵尊建立は宝永年間(一七〇四~一〇)、仏心の深い流田二代福島九左衛門が、亡くなった幼児の菩提を弔うため、村外れの出砂原に建立した。その後、正徳五年(一七一五)の未満水の大洪水により押し流されてしまい、以来、その姿は拝めないまゝ年月が過ぎてしまった。大洪水から数えて百二十六年後の天保十二年になって、村中の肝煎で再建されたものである。

明照寺2
寺標と本堂

寺宝◆阿弥陀如来像 不動明王像 摩利支天像
〒399-3103 長野県下伊那郡高森町下市田2921 TEL 0265-35-2356

7 座光山 領法寺(ざこうざん りょうぼうじ)

宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来
開創 天文~永禄年間(一五三二~六九)
開山 日勝上人

領法寺1
右より、護摩堂・本堂・庫裡

山吹藩座光寺家の菩提寺
領法寺は室町時代後期、山吹駒場の地に日蓮宗の僧・日勝上人により創建された。寛永元年(一六二四)、山吹藩座光寺家の菩提寺として現在地に移転。明治維新までの十三代にわたる領主の位牌が、初代為真公の木像とともにお祀りされている。
開創以来、領法寺の本寺は江戸谷中の感應寺(現天王寺)であったが、五代将軍綱吉の天台宗改宗の幕命により、天王寺とともに元禄十二年(一六九九)、比叡山を本山とすることになった。当寺で修行の後、浅草寺別当職、天王寺住職となる海侃(かいかん)和尚への報恩の月輪(がちりん)供養塔が境内に建立、また帰郷の折に使用した十万石相当の御駕籠が、東叡山寛永寺の木札とともに本堂に保存されている。
平成十七年の大修理により、本堂の改築、護摩堂の新築等が行われた。同二十二年には、明治初年の廃仏毀釈で影響を受けた観音・勢至二菩薩が造立され、百四十年ぶりに阿弥陀三尊形式が整った。

現世安穏を祈る修行の場
不動明王を本尊とする護摩堂は、比叡山の回峰行者(かいほうぎょうじゃ)である住職の悲願として、平成十四年に比叡山の檜の寄進を受けて建立された。悩みが深くては、健康に不安があっては、人生を幸せに生きていくことはできない。毎月二十八日の縁日には、信者さんが護摩木を書き、真言を唱えて護摩供修行をしている。

領法寺2
護摩堂

縁日・祭事◆初不動尊厄除大祭:1月28日 大般若転読会:4月15日 施餓鬼会:7月第1日曜日 お大師会:12月10日 除夜の鐘・二年詣り:大晦日 不動明王縁日護摩供:毎月28日
寺宝◆釈迦涅槃図(伊倉応之画) 瀧見観音図(兆殿司画) 花鳥二幅(狩野信隆画) 聖観音坐像(藤原仏)
体験◆写経会:春・秋彼岸中日
〒399-3101 長野県下伊那郡高森町山吹1137 TEL 0265-35-3641

8 普門山 隣政寺(ふもんざん りんしょうじ)

宗派 天台宗
本尊 千手観世音菩薩
開創 不詳
開山 不詳(一説に日得上人)

隣政寺1
不動堂(蚕玉堂)

「山の寺」と呼ばれる祈祷寺
隣政寺の開創・開山は、一説に天正元年(一五七三)日得上人により日蓮宗として開山したといわれる。また天文元年(一五三二)、隣政寺奥の院がある戒壇山に現れた千手観音を、粦政院日勝(にっしょう)上人が霊夢を得て、戒壇山麓に堂宇を建て安置したことに始まるとの伝承も残る。
元禄年間、本寺であった江戸谷中の感應寺とともに天台宗に改宗。山吹藩座光寺氏の祈願寺として崇敬得て、寛文十三年(一六七三)に座光寺家三代為実により堂宇の再建がなされた。以後数度の火災により現在の地に移った。現在の本堂は明治二十七年(一八九四)再建のもので、名工として知られる木曽出身の宮大工・坂田亀吉の最後の仕事である。
当寺は一般に「山の寺」と呼ばれる。旧春日街道(盗人道)が近くを通り、古くより伊那谷の祈祷道場として信仰されてきた。奥の院戒壇山には崖に刻まれた不動明王があり、近郷近在の人々から信仰されてきた。

名工・立川流の彫刻
「山の寺」の別称どおり、隣政寺は標高八九〇メートルの冷涼な山中にある。このため古くから、広く飯伊在住養蚕農家の蚕種を風穴に預かり保存していた。明治の火災時、飯田市郊戸神社より購入移築した不動堂には、不動尊とともに蚕玉神が祀られ、別称蚕玉堂ともいわれる。
本堂向拝正面、虹梁の子持竜や左右の蝦虹梁の昇り竜・降り竜などは、立川流の彫刻師・立木音四郎種清の作である。種清は立川二代和四郎冨昌の弟子で姓は立木だが、立川姓を名乗ることを許されていたほどの逸材であった。
上り坂が続く山門までの参道は「哲学の路」の名があり、四季の草花が美しい。旧参道沿いには西国三十三ヵ寺の観音石仏が安置されている。

隣政寺2
本堂向拝の彫刻

縁日・祭事◆修正会:1月1日 厄除祈願会:1月17日 初不動:1月28日 涅槃会:3月15日(月おくれ) 彼岸会:春・秋彼岸 仏生会:4月8日 春季例祭:5月3日 施餓鬼会:8月1日 宗祖誕生会:8月18日 霜月会(天台大師入滅):12月3日
体験◆写経会、止観会(坐禅会):春・秋彼岸
霊場・札所◆伊那西国観音札所第三十二番札所
〒399-3101 長野県下伊那郡高森町山吹2357 TEL 0265-35-5362

9 大嶋山 瑠璃寺(だいとうざん るりじ)

宗派 天台宗
本尊 薬師瑠璃光如来
開創 天永三年(一一一二)
開山 観誉僧都

瑠璃寺1
薬師三尊像

開創九百年の古刹
天永三年(一一一二)、比叡山竹林院の観誉僧都がこの地を訪れた際、夢に薬師如来が現れ、不動滝へと向かう途中にある仁王山の「間の洞」(後の堂所)の地に堂塔を建立したと伝えられる。鎌倉時代になって現在の地に移転し、建久三年(一一九七)に源頼朝の祈願所となり、寺領七五〇石が永代寄進された。その折に三本の桜も寄進され、代替わりし現在に至っている。その後、上杉謙信戦勝祈願の寺、武田信玄仏道修行の寺として名を馳せ、三十六坊が一キロ四方に点在する全盛時代を迎えた。
しかし天正十年(一五八二)、織田軍の兵火により堂塔をことごとく焼失してしまう。一旦は元の堂所の地に移り、江戸の寛永元年(一六二四)に再度現在地に移転となった。その後徳川家の加護を受けて再興し現在に至っている。薬師三尊仏、聖観音、地蔵菩薩など平安期に造立された仏像は幸い兵火を免れ、現在は文化財となっている。

平安仏を拝む
本尊の薬師如来三尊仏は、平安前期の重厚で厳しい尊容と、平安後期の主流をなした定朝様(じょうちょうよう)の優美な造形を併せもっている。観音堂に安置されている聖観世音菩薩は等身大の立像で、優しげな面相や奥行きの浅い躯体などに平安後期の特徴が表れている。
春の大祭に奉納される獅子舞は、開創当時から変遷を辿り現在まで伝承されてきた。伊那谷屋台獅子の源流といわれ、毎春、満開を迎えた桜の下で、宇天王が操る優雅な舞楽獅子が演じられる。一方、山門手前の「瑠璃の里会館」に祀られている薬師猫神様は、平成十九年に養蚕の守り神を起源として、薬師如来の化身としてお迎えした神様で、新名所として人気を集めている。

瑠璃寺2
源頼朝寄進桜

縁日・祭事◆春季祭典:4月第2土日 観音講:毎月17日 阿弥陀講:毎月18日
史跡・文化財◆薬師三尊像〈薬師如来・日光菩薩・月光菩薩〉(国重文) 聖観世音菩薩(県宝) 大島山獅子舞(県無形民俗文化財) 本堂薬師堂(町指定) 聖衆来迎之図(町指定) 紺紙金泥経(町指定) ほか
寺宝◆源頼朝寄進桜(枝垂れ桜、地主桜、彼岸桜) 武田信玄寄進物(太刀、鶏香炉、文書)
霊場・札所◆伊那西国観音札所第三十三番札所
〒399-3106 長野県下伊那郡高森町大島山812 TEL 0265-35-2209

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