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TAKART特集

南信州の「時間」について考えてみました

瞬く間に過ぎ去ってしまう時間もあれば、わずかな時間を飽きるほど長く感じたり、時間に対する感覚は人により、時と場合によりさまざまです。
同様に、大都市の慌ただしい時間と農山村のゆったりした時の流れでは、その速度が違っているように感じます。
この地域にはどんな時間が流れているのか。暮らしや歴史と関係した、どのような時間世界があるのか。─南信州を「時間」を視点に考えてみました。

相対的な時間 〈農山村の時間は、人と自然のやりとりを通してつくられる〉

農家の仕事は一年のなかで、ある時季は忙しく、またある時季はのんびりと推移します。春や秋の農繁期は時間が濃縮したように過ぎ去り、その合間や寒中期などはゆったりと流れます。時計が刻む等速な時間とは異なる流れです。
農村では、人が時間に管理されるような社会と違い、農作業など人の営みとの関係で、時に速く時にゆっくりと時間が刻まれます。春や秋の時季は凝縮した時間、農閑期には緩やかな時間と、農村の暮らしと等身大に流れる時間です。
このような農村の時間世界は、人と自然のやりとりを通して生まれます。人間の仕事や暮らしと相対的に生成するため、均一・等速には推移しません。人の営みとの関係で変容する時間世界です。
農家の人は、一日の時間に追われるような仕事のやり方と異なり、春の植え付け、夏の管理、秋の収穫、そして冬場の仕事というように、一年を見通した時間の感覚を身に付けています。
農村や山村にゆったりした安らぎを感じるのは、こんな人の身体感覚に馴染んだ時間のせいかもしれません。農山村の時間がつくり上げた風景もまた、人間の身の丈に合った親しみやすさを感じさせます。南信州にはこのような時間世界が、懐かしい風景となって散見できます。

循環する時間 〈巡り還る時間が、安心を支える〉

農業のような、季節や自然条件に応じて営まれる仕事や生活は、巡り来る季節の中で、それぞれが一年前と同じように行われます。去年と同じことが今年もなされ、それはおそらく来年も行われるでしょう。例えば春の農作業は、一年という時間の経過はあるものの「一年後の仕事」ではなく、「再び巡ってきた春の仕事」です。同じ「時」が巡り還ったのです。過去、現在、未来と推移する時間の中で人は歳を取りますが、一年歳を取ったその人の元へ、一年前と変わらない時が再び訪れたことになります。
時間と共に現在が過去になっていく世界に対し、このような感覚は「循環する時間世界」を生きているといえるでしょう。そしてこの循環する時間は、自然と深く結びついた農山村の暮らしに顕著です。農山村には、過去から未来へと推移する時間と、循環する時間の二様の時間世界があり、そこに暮らす人々は二様の時間感覚をもっているように思われます。
一年の時間の経過を、「同じ時が再びやってきた」と思える感覚は、永遠の円環に通じます。円環の中に身を置くことで、永遠性に通じる安心が得られるのです。
このような時間に対する考え方は、南信州の民俗芸能にも現れています。「生まれ清まれ」る冬場の湯立神楽は、一年毎にすべてのものが元に戻り再生復活するという信仰です。過ぎ去った時間は取り戻せないのではなく、時は巡り還ってまた始まるのだからやり直せる。だから生きていける─このような考え方が、山村の厳しい自然に生きる人々の精神の支えとなって、芸能は伝承されてきました。
南信州には循環し永続する時間が、そこに暮らす人々の安心を支える精神基盤として刻まれています。それが安堵感という印象に結びついているのではないでしょうか。

重層した時間 〈孫の代までも見通す、長い時間を支える仕組み〉

南信州には、遠山杉、根羽杉などの豊かな森林が開けています。森林資源は、一年で完結・循環していく農業と違い、育林に長い年月がかかります。薪や炭の材林は15~20年で再生しますが、スギやヒノキは伐採までに50~100年を要します。材によってはそれ以上のものもあるでしょう。森林を相手にした世界には、一年の循環する時間に加え、15~20年の時間、50年100年の時間といった異なるスケールの時間が重なり合っています。
現代の感覚からすれば、50年100年はあまりに長大です。しかしかつて日本の山村には、数種の異なるスケールの時間が矛盾対立することなく並存していました。そこに生きる人々は、毎日の暮らしをやりくりしながら子や孫の代までも見通していたのです。そこには特有の時間認識があったのではないでしょうか。
時間とは「時」と「間」の集合です。一年の農作業に照らせば、冬場は春の農作業という「時」の「間」であり、夏の手入れ・管理は秋の収穫という「時」の「間」といえます。この春秋の「時」は凝縮した一瞬ですが、その間の「間」は長く悠長に過ぎていきます。
この見方で森林造りを捉えれば、植林や伐採といった「時」に対し、木が生育するまでの「間」は数十年単位の長期になります。そしてこの長い「間」を支える仕組みが、かつての山村にはあったと考えられます。それはおそらく変化や進歩への信奉とは別種の、持続、継続、共存への意思だったのでしょう。
現代社会はこのような長い時間を支える仕組みを失ってしまいました。その結果が森林の荒廃となり、さらには子や孫の世代へ責任ある社会を描けない状況にもつながっています。それでも南信州にはまだ重層する時間があり、それを支える暮らしが残されています。現代社会が喪失したものを、南信州の暮らしに見出してみたいと思います。

あいまいな時間 〈仕事も余暇も、すべてが一体化した暮らし〉

南信州には、地域の自然や資源など、その地に存在するさまざまなものが密接につながり合った生業や生活があります。
生業的な農業は自然条件を活かし、土壌に適した作物を必要な分だけつくります。肥料は家畜小屋の稲わらや里山の腐葉土を使うなど、周囲の資源を無駄にしません。郷土料理にみられる、穫れた作物の加工や保存の知恵も、気候風土と上手に結ばれています。薪や炭材の供給地である里山は、春は山菜採りの、秋にはきのこ狩りの場となります。仕事も遊びもすべてが融合し、混然一体化した生活の場といえます。
このような暮らしぶりは、経済的な価値を伴う仕事・生産の時間と、そうでない時間の境界がとてもあいまいになります。遊びの色合いの強い山菜・きのこ採りも、かつては食の糧を得る仕事としての要素がありました。現代社会では、いわゆる余暇は仕事の時間と明確に分断されますが、この場合は区分があいまいです。仕事も余暇もすべてが重なり合い、一筋の暮らしの流れに溶け合っているようです。
地域のさまざまなものが密接につながり合った社会では、一面が突出することなく、生活環境はいつもバランスが取れ調和が保たれます。生活の知恵や技術も、その地域で培われその地域で有用な、地域に根ざしたものになるでしょう。

積層した時間 〈人間の営みが溶け込み磨かれた、時間の品格〉

古くより開けた南信州地域一帯は、多くの旧街道が行き交い、その歴史を今に留める光景に出会えます。車社会の到来以降、かつての街道や鉄道は幹線からはずれましたが、身近な生活の道に替わって現在も命脈を保っています。
古いもの、歴史に磨かれたものを目にしたとき、私たちは永遠の時間に接したような深い感動を受けます。これは同じ長い時間の経過でも、例えば風化した岩や巨木のような、自然の光景への感情とは別種のものです。そこには、人の生活を支え人間の営みが溶け込んだ、濃縮した時間の品格があります。地域の暮らしと関わり合って磨かれてきた、積層した時間への感銘です。
人の歩調が刻まれた古い街道や城下町の街並みも、今も地域の足として利用されているJR飯田線にも、積層した大きな時間の上に、人の生活のテンポに合った時間の流れがあります。それが深い味わいを投げかけてくれます。

※本稿は2010年6月発行の『いいだ・南信州大好き』に載った「南信州の多様な時間世界」を転載しました。本文の内容については、内山節著『時間についての十二章』(岩波書店)を参照しています。

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